「いわゆる近鉄バファローズ物語」

「いわゆる近鉄バファローズ物語」

 

皆さんこんにちは(こんばんは)!

私は福島県出身で、「古豪」という表現になりますが、高校野球ではちょっとだけ

有名な学校のOBになります。

 

何故東北の片田舎、文字どおりの山の中に生まれた人間が大阪の「人気が無くてプロ

野球には最も適さない環境にある球団」近鉄バファローのファンになったのか、そのあたりをまとめて発表したいと思います。少々想いが強すぎて文章が激しく揺らぐ可能性がございますが、広い心でお許し下さい。

 

近鉄バファローズを最初に知ったのは、昭和44年のドラフト会議に遡ります。小学生が情報を得るのは、新聞やテレビがやっとの時代ですので、太田幸司の名前と顔が一致するまで少し時間が掛かりました。但し、ナイター中継に登場することは皆無。翌年のオールスターの試合に出てきたブラウン管内の太田幸司は、正直なところ当時読売巨人軍の大エースであった堀内恒夫の100倍は格好良い存在でした。

 

その当時は、テレビ中継の頻度=プロ野球チーム好き度の時代なので、純粋に読売巨人軍が贔屓チームであり、1番高田2番土井のコンビがお気に入りでした。

近鉄の話題が一般紙(地方紙)のスポーツ欄を飾ることは無く、万年最下位チームで、唯一のスターとして「鈴木」の名前がチラホラぐらいには登場した記憶があります。

正直にお話をしますと、小学校の低学年時代なので「ちかてつ」と呼んで、中学生の

兄に小馬鹿にされた記憶があります。

 

少しだけ大人になった時、ペナントレースとか、セリーグパリーグの違いとか日本シリーズの意味が解りかけた頃ですが、後楽園球場で山田久志が世界の王貞治にホームランを打たれたシーンをテレビ中継で見ました。

それも小学校の職員室にあるテレビで、校長先生が真剣に見入った状態だったため、

入室した自分に気が付いていないことを確信したうえで、臨場感たっぷりのシーンを

隣で立ち会って見てあげました。

印象に残ったのは、山田でも王でもなく「西本監督」でした。マウンド上で負けた男のそばに立って良いのはこんな感じのおじさんなんだなぁ・・・というのは漠然と記憶があります。

その後、「阪急」の顔のような存在の怖い監督が忘れられずにいたら、いつの間にか「近鉄」の監督になっていました。おまけに、黒髪は白髪になり年をとって顔も柔和になったような気がしましたが、相変わらずインタビューでは苦味ばしった厳しい顔つきで、ものすごく真剣にお話をされていました。この強面のおじさんは、意外と良い人の

なのかも知れない?と思った瞬間です。

 

間違いなく「近鉄ファン」というゆるぎない意識を持ったのは高校2年生の時ですね。1978年藤井寺決戦」という名称で記憶されている方もいらっしゃると思いますが「鈴木」は最高のサウスポーであり快進撃の立役者でした。

その鈴木を全面にたてて負けた西本監督のインタビューで、軍団を率いて敗れた将の無念さのようなものが小学校の時の記憶と重なり、あらためて男の生き様を垣間見たような想いがありました。本音を吐き辞意を口にする指揮官の姿をテレビで見たとき、ほんとに心から痺れましたね。何か、人間としての生き方を教えて貰ったような感覚で

した。

 

 

翌年の1979年は「江夏の21球」というとんでもなく思わせぶりなタイトルが世にはびこる元になる事件が発生しましたが、たぶん誰も覚えていないと思いますので、割愛させて頂きます。お陰様で広島カープがホントに嫌いになり、ついでに山際淳司の作品は全て懐疑的な意味で注目するようになりました。俺様の嫌いな相手方の立場で話を作ったうえ、美談仕立てでまとめやがって・・・。

 

余談ですが、この年のペナントレースプレーオフ日本シリーズを見ながら、どんどん近鉄のファンとしての意識が強くなった自分は、どうしてもファンレター的なものを

送りたくなりました。当時はおおらかな時代でしたので、選手の住所も名鑑に載っており、思わず西本監督と数名の選手に年賀状を送りました。(但し、鈴木は除く)

各試合をテレビ中継で見て、その後プロ野球ニュースで復習し、週刊ベースボールを読みふけり、そして感動のあまり・・・のような内容でしたが、あの素晴らしいプロフェッショナルな小川亨選手から直筆の返事が来た事は忘れがたい記憶です。

 

特に「優勝」を望んでいるわけではないのですが、思春期や青年期にありがちな、一度はあいつらを最後の最後で勝たせてあげたいなぁ・・・。そんな気持ちにさせてくれるチーム、という意味で好きだったのかも知れません。

 

その後監督は幾度となく変わり、勝率は常に5割を少し切るか激しく切るか?という

微妙すぎてコメントのしようのない状態が続いていましたが、昭和の終わり頃に突然川崎球場が主役として躍り出ました。正直なところ「えっ?」っていうぐらい事態を把握していなくて、おまけに、当日は久々のお休みを利用して大阪で彼女とデートをしていたという、最低の近鉄ファンだったものですから・・・「なんで藤井寺でやん

ねえんだよ!」と逆切れしていた記憶があります。

 

驚くほどドラマチックな勝ち方をして、最後に肝心なところで劇的に負ける・・・何度同じシーンを見させられて来たのか、平成になってから阿波野の時代もブライアントの時代も野茂の時代も、ことごとく潤沢な資金と優秀な監督と有能な選手に溢れる西武に叩きのめされました。全力で、本当に精一杯の気持ちで勝ちに行って有りえないほどの確率で負ける、の繰り返しです。良くこいつら次の試合の時に立ち直れるものだなぁ・・・と、感心するぐらいのダメダメなお噺のオンパレードでしたね。

ピッチャーの格で負けて打撃で太刀打ち出来なくて、守備で大恥をかいて、走塁で

小馬鹿にされて・・・最後に計算をすると、必ずあそこで2.3勝したら優勝だった

のに何故肝心なところで負けるのか?

土日のデーゲームの試合をNHKテレビで見ながら、情けなくて思わず泣きながら梅酒をがぶ飲みしていた、卑屈な貧乏人としての記憶があります。

 

江夏豊様がおしゃっていましたが「近鉄というチームは負け方があまりにも下手過ぎる・・・こんだけ(78~80勝)勝っているのに優勝出来ないのは監督の能力に問題があるのではないか?」いや、その前に全てにおいて問題山積みですから、まして元

阪神タイガースの選手に他のチームのことをトヤカク言われたくありませんね。

 

別に、日本一になりたいとか考えていたわけではないのですが、普通の状態でそれなりに実力を出してくれたら良いんだからねキミたち!わかる?という願いなど一度もかなえられたことがありません。

「借りてきた牛」という表現で、自虐的な笑いをとろうと思いましたが、途中で力が

抜けてしまい封印しました。

 

1989年には間に合いませんでしたが、1990年にたまたま転職した都内の会社で秋口に大阪で大きな展示会があり、もしかしたら聖地である藤井寺球場に立寄れるかも知れないと思っていたら、ホントに土曜日の夜にナイトゲームを見る機会を得ま

した。

勿論、自分一人だけで南港から藤井寺に向かいまして、住宅街に似つかわしくない素敵なカクテル光線(環境問題になったのはこれか?)を目指して歩きました。どれほど

興奮していたか・・・ついに東北の近鉄ファン藤井寺まで来たぞ!ぐらいの勢いでしたが・・・、その時見た球場のお粗末さは、漫画的に表現すると、顎が外れて地面に

落ちてしまったシーンぐらいの衝撃でした。 

「超大掛かりな外壁塗装工事」「球場内通路張替工事」「エレベータホール改修工事」「男女トイレ改修工事」「最寄駅から球場までの道路補修工事」「内外野問わず全ての座席交換」「バックネットおよび内外野ネット補修工事」「バックスクリーンおよび

電光掲示板改修工事」等々、築40年ぐらいのマンション並みにいくらでも予算をつぎ込んでオッケー状態でした。実際、自分の出身地にある歴史があり過ぎてどうしようも

ない古い球場と遜色がない、極端にボロボロな建物だったんです。

 

こんな施設で俺様の近鉄バファローズはひたすら戦い、堤オーナー率いる金満球団に

立ち向かって毎回のように負けていたのかと思うと、まるで自分のしょうもない生き方がそのまま反映されているようで、観戦どころではありませんでした。

全選手が可哀そうになり、もっと昔の羽田や橘はどんな思いだったんだろう・・・。

なんか昔の映像とかエピソードとかがゴチャゴチャになって、物凄く複雑な気持ち

でした。

 

ついでにお話をしますと、2001年に付きましては個人的に人生の深い闇に落ち行くタイミングなので、チームの成績とか日本シリーズとか、ほとんど記憶がありません。

近鉄様の優勝話しで嬉しくないわけではないのですが、何か世界が違うような、別の

チームのような気がしてしまう自分がおりました。ドーム球場は日生や藤井寺に比べたら綺麗な建物で、制服?は新時代の洗練されたユニフォームなのかも知れませんが、

駄目なんですよ・・・ホントに。完全にひずみのようなものが出てしまい、最終的にはどんどん心が「近鉄バファローズ」から離れて行って・・・そしたら数年後には球団が消滅する事態が起こった、というストーリーになります。

 

自分の中で、今も鮮明に映像が残っている選手がいます。

「平野光泰」外野手 右投げ右打ち 明星高校出身 クラレ岡山を経て近鉄バッファ

ローズに入団。西本監督のもとで鍛えられた戦士の一人ということになりますが、1000試合出場、1000本安打、100本塁打、100盗塁、サイクルヒットを記録し、、ダイヤモンドグラブ賞にも2度選ばれています。

但し、自分が記憶しているのは、あの西本監督をして「何とかする平野」という名言を残した様々なプレイです。

皆が苦しい時に、率先して窮地に飛び込みスマートではありませんが、泥臭く無理やり形を作り点に結びつくような動きをしていました。ある意味「ゾーン」に入ったら他の選手をはるかに凌駕するような、そんなプレーヤーなのかも知れませんね。

絶頂と思われる1980年の日本シリーズにおいて、ペナントレースパリーグプレーオフと活躍した勢いそのままでプレイを続けましたが、近鉄の3勝2敗で迎えた広島

カープ福士投手の立ち上がり、3ボール1ストライクとなった時点でヒッティングに

出ました。

雑誌スポーツグラフィックナンバーでのインタビューで、この瞬間、西本監督は日本

シリーズの負けを予感したそうです。理由は、福士投手自身緊張のあまり全くボールを扱えていない状態で、あと1球待つだけで勝機は決した(フォアボールを出して自滅の意味)そうです。

「平野の力と運によりでここまで来たが、平野はあと1球を待ち切れないまま強気の

ヒッティングに出て、結果として近鉄日本シリーズの勝機を逸した。」

自分自身、生まれて初めてその勝負のあやとその深い意味合い、持って生まれた運を

感じた瞬間でした。

 

因みに、冒頭で自分の出身高校を紹介?しましたが、阪急ブレーブスファンの方ならもしかしたらご存知かも知れませんね。

昭和のドラフトで二人の投手が入団しています。

1977年 ドラフト2位 三浦 広之 右投げ

1984年 ドラフト2位 古溝 克之 左投げ 

三浦投手は2学年上で、古溝投手は2年下になります。

ドラフト上位に指名される投手の能力を生まれて初めて体感したのは三浦投手でした。ルーキー時代の活躍やそのポテンシャルから考えて、何故大成しなかったのか?今でもアスリートの故障とか怪我の記事を見る度に心が痛みます。

逆に、古溝投手がプロに入団した時には、確かに高校生のレベルでは良い投手だけれど「まさか?」と思ったほど意外なお話でした。人それぞれ旬の時期が違う、その見本のような気がします。

もし、どちらかが上田監督ではなく西本監督の配下で活躍していたら・・・自分はまさしく「近鉄狂」だったのかも知れません。

 

さて、本題に戻ります。近鉄バファローズを純粋に好きだった時代は自分の人生もまだ単純明快だったような気がします。

仕事は頑張っているつもりだし会社も何とかなるんじゃないか、そして、自分は悪い

人間ではなく能力も人並みにあるはず=一緒に暮らしているヒト達は幸せ、という

図式です。

それがある日突然奈落の底に落ちたきり這い上がることも出来ず、もがいてももがいても空回りどころか、ますます深い闇に落ちて行くような感覚が・・・。

結果、2004年に近鉄バファローズが消滅した時期、自分自身の最悪な時代の真っ只中でした。数年前から既に兆候はありましたが、公私ともに決定的なことが起き始めたのはこのあたりからです。

贔屓球団を恨むとかの気持ちは皆無なんですが、今まで「癒し」として存在し自分を

慰めてくれたはずの近鉄が完全に無くなることは本当にきつかったですし、長年の楽しみが取り上げられると、どうして良いのか本当にわからなくなりますね。一時期気持ちは離れたと言っても、どこかで繋がっていたかったのに・・・そんな感覚です。

ただ、昔の好きの度合いが激しすぎて困るぐらいの時代を想えば、一途な気持ちが残っていない現在の自分のこころの在り方が問題なのか、俺が甲斐性無しだから駄目なのか・・・とため息が出ました。

 

当時の自分の生活ですが、人並みの暮らしなど絶対に有りえないぐらいのレベルでしたので、とにかく何か稼がなければ、と日々焦れば焦るほどドツボにはまり・・・最後に仕事を与えられた場所は「大阪の街」でした。

東北の片田舎に住んではるか遠い地にある球団に想いをはせていた時代の名残とかを

含め、自分の人生に折り合いをつける時期が来ているのか、と思わざるを得ない状況

でした。

本当に皮肉だなぁって思ったのは、「近鉄が消滅した大阪に向かう(住む)自分」という図式です。もっと早く機会があればどうだったのか?他に選択肢は無いのか?タラ話が延々に続きそうなぐらいのテーマになりますね。

 

結局、仕事場を転々としながら足掛け10年関西圏に住んで、数年前に都内に戻り暮らしています。

近鉄バファローズ」が消滅してから随分と時間が経ちました・・・。

現在は、スポーツニュースを見ることも無くYahooで試合の結果を確認する程度

です。選手の名前や成績、ペナントレースの状況などほんの少ししかわかりません。

それでも、なんとなくプロ野球に愛着が残っていることは感じていますね。

何となく悲しげな、頑張っているけど報われない、思わず手を差し伸べてどうにか

したくなるような、そんなチームを応援していた自分がいたことを時々思い出して

は勝手に感傷にひたっています。

 

それではまた