水上善雄について

1980年、まだバリバリ昭和の時代ですね。

当時のプロ野球においては、パ・リーグのみ前後期制をとりプレーオフで決着をつける

という仕組みでした。

確か記憶の中では、「喝!」の張本様が3,000本安打を達成した年だと思います。

 

その頃の自分は勉強もしないやりたいことも無い・・・ただ漫然と実家で一日を過ごすだけという、何とも情けない生活をしていました。肩書は浪人生だったのですが、

単なる引きこもりですね。

そんな人間でも、プロ野球の贔屓チーム「近鉄バファローズ」がプレーオフ進出と

なれば試合を見ないわけには行きません。本当にかじりつくような感じでテレビの前に

座っていたように思います。

 

対戦相手は前期の覇者で川崎球場を本拠地とするロッテオリオンズでしたが、後期を

制して勢いに乗る近鉄が3タテで圧倒、めでたく日本シリーズに進出となりました。

ただ、この時にロッテのある選手のプレーを見て本当に驚き、プロ野球に新しい時代が

来たんだなあ・・・って、勝手に感動していたことを思い出しました。

 

その選手の名前は「水上善雄」です。このプレーオフでは、近鉄バファローズの平野光泰選手が恐るべき能力を発揮し、打率10割という手の付けようが無いくらい、何を

やっても当たりまくり・・・。全ての打球を芯でとらえ、ひとりだけ金属バットで打ったのか?と思うような打球が内外野に飛んで行きました。

 

そこで問題のシーンのお話になります。第一戦、平野の何打席目かで打った打球は物凄い勢いでピッチャー横を抜けるか?思ったら、そこに水上が回り込んで捕球の姿勢に入ったところでイレギュラー・・・あぁっ、強い当たりだから大きくはじくんだろうなあ

と思ったら。なんと水上は一瞬で体中の力を抜き「グローブを使わずに脱力した上半身全体で受け止める」というスペシャルな技を披露しました。なんと、ボールは本当に

スポンジに埋まったように力が無くなり、グランドにポトリと落ちて、それを拾った

水上が一塁に投げたが間に合わず内野安打となりました。

ゆっくり説明すると

①とんでもない強いボールが飛んできました。

②追いついて捕球の体勢に入り掛けたらイレギュラーバウンド!

③すぐに全身の力をゼロにして、打球に合わせほんの一瞬後ろに下がり気味のジャンプ

④結果、ボールが体に衝突することなく音もたてずにグランドに落ちる

⑤グラブ未使用のまま、ボールを拾って1塁へ送球

こんな感じですね。

 

硬球を受け止める際、身を守り痛みを和らげるためにも息をとめ硬い胸と腹でうける

と思いがちですが、玄人に言わせると「それじゃあ、ボールが明後日のほうにいっち

まうんだよ」とのこと。「ただ、脱力した身体で受けるのはメチャクチャ痛い!」

と断言していました。だからこそ、若い水上のプレーを皆が絶賛し、そのポテンシャルの高さから更なる一流の選手へのストーリーを創造したのだと思います。

 

比較の対象はたくさんおりますので、誰がどうこうというのは全くないのですが、後にも先にも、あんな凄いプレーを見たのは一度きりでした。

今でも、自分のなかでNo1ショートは水上です。姿の良い細身で長髪、やんちゃな姿は後年の西岡を彷彿させますが、西岡は野球をやっていただけでした。

水上は全く別の次元にいたように思います。今思うと、野球人だけど自由人?のような存在でしたね。

 

それではまた

 

 

 

 

「いわゆる近鉄バファローズ物語」

「いわゆる近鉄バファローズ物語」

 

皆さんこんにちは(こんばんは)!

私は福島県出身で、「古豪」という表現になりますが、高校野球ではちょっとだけ

有名な学校のOBになります。

 

何故東北の片田舎、文字どおりの山の中に生まれた人間が大阪の「人気が無くてプロ

野球には最も適さない環境にある球団」近鉄バファローのファンになったのか、そのあたりをまとめて発表したいと思います。少々想いが強すぎて文章が激しく揺らぐ可能性がございますが、広い心でお許し下さい。

 

近鉄バファローズを最初に知ったのは、昭和44年のドラフト会議に遡ります。小学生が情報を得るのは、新聞やテレビがやっとの時代ですので、太田幸司の名前と顔が一致するまで少し時間が掛かりました。但し、ナイター中継に登場することは皆無。翌年のオールスターの試合に出てきたブラウン管内の太田幸司は、正直なところ当時読売巨人軍の大エースであった堀内恒夫の100倍は格好良い存在でした。

 

その当時は、テレビ中継の頻度=プロ野球チーム好き度の時代なので、純粋に読売巨人軍が贔屓チームであり、1番高田2番土井のコンビがお気に入りでした。

近鉄の話題が一般紙(地方紙)のスポーツ欄を飾ることは無く、万年最下位チームで、唯一のスターとして「鈴木」の名前がチラホラぐらいには登場した記憶があります。

正直にお話をしますと、小学校の低学年時代なので「ちかてつ」と呼んで、中学生の

兄に小馬鹿にされた記憶があります。

 

少しだけ大人になった時、ペナントレースとか、セリーグパリーグの違いとか日本シリーズの意味が解りかけた頃ですが、後楽園球場で山田久志が世界の王貞治にホームランを打たれたシーンをテレビ中継で見ました。

それも小学校の職員室にあるテレビで、校長先生が真剣に見入った状態だったため、

入室した自分に気が付いていないことを確信したうえで、臨場感たっぷりのシーンを

隣で立ち会って見てあげました。

印象に残ったのは、山田でも王でもなく「西本監督」でした。マウンド上で負けた男のそばに立って良いのはこんな感じのおじさんなんだなぁ・・・というのは漠然と記憶があります。

その後、「阪急」の顔のような存在の怖い監督が忘れられずにいたら、いつの間にか「近鉄」の監督になっていました。おまけに、黒髪は白髪になり年をとって顔も柔和になったような気がしましたが、相変わらずインタビューでは苦味ばしった厳しい顔つきで、ものすごく真剣にお話をされていました。この強面のおじさんは、意外と良い人の

なのかも知れない?と思った瞬間です。

 

間違いなく「近鉄ファン」というゆるぎない意識を持ったのは高校2年生の時ですね。1978年藤井寺決戦」という名称で記憶されている方もいらっしゃると思いますが「鈴木」は最高のサウスポーであり快進撃の立役者でした。

その鈴木を全面にたてて負けた西本監督のインタビューで、軍団を率いて敗れた将の無念さのようなものが小学校の時の記憶と重なり、あらためて男の生き様を垣間見たような想いがありました。本音を吐き辞意を口にする指揮官の姿をテレビで見たとき、ほんとに心から痺れましたね。何か、人間としての生き方を教えて貰ったような感覚で

した。

 

 

翌年の1979年は「江夏の21球」というとんでもなく思わせぶりなタイトルが世にはびこる元になる事件が発生しましたが、たぶん誰も覚えていないと思いますので、割愛させて頂きます。お陰様で広島カープがホントに嫌いになり、ついでに山際淳司の作品は全て懐疑的な意味で注目するようになりました。俺様の嫌いな相手方の立場で話を作ったうえ、美談仕立てでまとめやがって・・・。

 

余談ですが、この年のペナントレースプレーオフ日本シリーズを見ながら、どんどん近鉄のファンとしての意識が強くなった自分は、どうしてもファンレター的なものを

送りたくなりました。当時はおおらかな時代でしたので、選手の住所も名鑑に載っており、思わず西本監督と数名の選手に年賀状を送りました。(但し、鈴木は除く)

各試合をテレビ中継で見て、その後プロ野球ニュースで復習し、週刊ベースボールを読みふけり、そして感動のあまり・・・のような内容でしたが、あの素晴らしいプロフェッショナルな小川亨選手から直筆の返事が来た事は忘れがたい記憶です。

 

特に「優勝」を望んでいるわけではないのですが、思春期や青年期にありがちな、一度はあいつらを最後の最後で勝たせてあげたいなぁ・・・。そんな気持ちにさせてくれるチーム、という意味で好きだったのかも知れません。

 

その後監督は幾度となく変わり、勝率は常に5割を少し切るか激しく切るか?という

微妙すぎてコメントのしようのない状態が続いていましたが、昭和の終わり頃に突然川崎球場が主役として躍り出ました。正直なところ「えっ?」っていうぐらい事態を把握していなくて、おまけに、当日は久々のお休みを利用して大阪で彼女とデートをしていたという、最低の近鉄ファンだったものですから・・・「なんで藤井寺でやん

ねえんだよ!」と逆切れしていた記憶があります。

 

驚くほどドラマチックな勝ち方をして、最後に肝心なところで劇的に負ける・・・何度同じシーンを見させられて来たのか、平成になってから阿波野の時代もブライアントの時代も野茂の時代も、ことごとく潤沢な資金と優秀な監督と有能な選手に溢れる西武に叩きのめされました。全力で、本当に精一杯の気持ちで勝ちに行って有りえないほどの確率で負ける、の繰り返しです。良くこいつら次の試合の時に立ち直れるものだなぁ・・・と、感心するぐらいのダメダメなお噺のオンパレードでしたね。

ピッチャーの格で負けて打撃で太刀打ち出来なくて、守備で大恥をかいて、走塁で

小馬鹿にされて・・・最後に計算をすると、必ずあそこで2.3勝したら優勝だった

のに何故肝心なところで負けるのか?

土日のデーゲームの試合をNHKテレビで見ながら、情けなくて思わず泣きながら梅酒をがぶ飲みしていた、卑屈な貧乏人としての記憶があります。

 

江夏豊様がおしゃっていましたが「近鉄というチームは負け方があまりにも下手過ぎる・・・こんだけ(78~80勝)勝っているのに優勝出来ないのは監督の能力に問題があるのではないか?」いや、その前に全てにおいて問題山積みですから、まして元

阪神タイガースの選手に他のチームのことをトヤカク言われたくありませんね。

 

別に、日本一になりたいとか考えていたわけではないのですが、普通の状態でそれなりに実力を出してくれたら良いんだからねキミたち!わかる?という願いなど一度もかなえられたことがありません。

「借りてきた牛」という表現で、自虐的な笑いをとろうと思いましたが、途中で力が

抜けてしまい封印しました。

 

1989年には間に合いませんでしたが、1990年にたまたま転職した都内の会社で秋口に大阪で大きな展示会があり、もしかしたら聖地である藤井寺球場に立寄れるかも知れないと思っていたら、ホントに土曜日の夜にナイトゲームを見る機会を得ま

した。

勿論、自分一人だけで南港から藤井寺に向かいまして、住宅街に似つかわしくない素敵なカクテル光線(環境問題になったのはこれか?)を目指して歩きました。どれほど

興奮していたか・・・ついに東北の近鉄ファン藤井寺まで来たぞ!ぐらいの勢いでしたが・・・、その時見た球場のお粗末さは、漫画的に表現すると、顎が外れて地面に

落ちてしまったシーンぐらいの衝撃でした。 

「超大掛かりな外壁塗装工事」「球場内通路張替工事」「エレベータホール改修工事」「男女トイレ改修工事」「最寄駅から球場までの道路補修工事」「内外野問わず全ての座席交換」「バックネットおよび内外野ネット補修工事」「バックスクリーンおよび

電光掲示板改修工事」等々、築40年ぐらいのマンション並みにいくらでも予算をつぎ込んでオッケー状態でした。実際、自分の出身地にある歴史があり過ぎてどうしようも

ない古い球場と遜色がない、極端にボロボロな建物だったんです。

 

こんな施設で俺様の近鉄バファローズはひたすら戦い、堤オーナー率いる金満球団に

立ち向かって毎回のように負けていたのかと思うと、まるで自分のしょうもない生き方がそのまま反映されているようで、観戦どころではありませんでした。

全選手が可哀そうになり、もっと昔の羽田や橘はどんな思いだったんだろう・・・。

なんか昔の映像とかエピソードとかがゴチャゴチャになって、物凄く複雑な気持ち

でした。

 

ついでにお話をしますと、2001年に付きましては個人的に人生の深い闇に落ち行くタイミングなので、チームの成績とか日本シリーズとか、ほとんど記憶がありません。

近鉄様の優勝話しで嬉しくないわけではないのですが、何か世界が違うような、別の

チームのような気がしてしまう自分がおりました。ドーム球場は日生や藤井寺に比べたら綺麗な建物で、制服?は新時代の洗練されたユニフォームなのかも知れませんが、

駄目なんですよ・・・ホントに。完全にひずみのようなものが出てしまい、最終的にはどんどん心が「近鉄バファローズ」から離れて行って・・・そしたら数年後には球団が消滅する事態が起こった、というストーリーになります。

 

自分の中で、今も鮮明に映像が残っている選手がいます。

「平野光泰」外野手 右投げ右打ち 明星高校出身 クラレ岡山を経て近鉄バッファ

ローズに入団。西本監督のもとで鍛えられた戦士の一人ということになりますが、1000試合出場、1000本安打、100本塁打、100盗塁、サイクルヒットを記録し、、ダイヤモンドグラブ賞にも2度選ばれています。

但し、自分が記憶しているのは、あの西本監督をして「何とかする平野」という名言を残した様々なプレイです。

皆が苦しい時に、率先して窮地に飛び込みスマートではありませんが、泥臭く無理やり形を作り点に結びつくような動きをしていました。ある意味「ゾーン」に入ったら他の選手をはるかに凌駕するような、そんなプレーヤーなのかも知れませんね。

絶頂と思われる1980年の日本シリーズにおいて、ペナントレースパリーグプレーオフと活躍した勢いそのままでプレイを続けましたが、近鉄の3勝2敗で迎えた広島

カープ福士投手の立ち上がり、3ボール1ストライクとなった時点でヒッティングに

出ました。

雑誌スポーツグラフィックナンバーでのインタビューで、この瞬間、西本監督は日本

シリーズの負けを予感したそうです。理由は、福士投手自身緊張のあまり全くボールを扱えていない状態で、あと1球待つだけで勝機は決した(フォアボールを出して自滅の意味)そうです。

「平野の力と運によりでここまで来たが、平野はあと1球を待ち切れないまま強気の

ヒッティングに出て、結果として近鉄日本シリーズの勝機を逸した。」

自分自身、生まれて初めてその勝負のあやとその深い意味合い、持って生まれた運を

感じた瞬間でした。

 

因みに、冒頭で自分の出身高校を紹介?しましたが、阪急ブレーブスファンの方ならもしかしたらご存知かも知れませんね。

昭和のドラフトで二人の投手が入団しています。

1977年 ドラフト2位 三浦 広之 右投げ

1984年 ドラフト2位 古溝 克之 左投げ 

三浦投手は2学年上で、古溝投手は2年下になります。

ドラフト上位に指名される投手の能力を生まれて初めて体感したのは三浦投手でした。ルーキー時代の活躍やそのポテンシャルから考えて、何故大成しなかったのか?今でもアスリートの故障とか怪我の記事を見る度に心が痛みます。

逆に、古溝投手がプロに入団した時には、確かに高校生のレベルでは良い投手だけれど「まさか?」と思ったほど意外なお話でした。人それぞれ旬の時期が違う、その見本のような気がします。

もし、どちらかが上田監督ではなく西本監督の配下で活躍していたら・・・自分はまさしく「近鉄狂」だったのかも知れません。

 

さて、本題に戻ります。近鉄バファローズを純粋に好きだった時代は自分の人生もまだ単純明快だったような気がします。

仕事は頑張っているつもりだし会社も何とかなるんじゃないか、そして、自分は悪い

人間ではなく能力も人並みにあるはず=一緒に暮らしているヒト達は幸せ、という

図式です。

それがある日突然奈落の底に落ちたきり這い上がることも出来ず、もがいてももがいても空回りどころか、ますます深い闇に落ちて行くような感覚が・・・。

結果、2004年に近鉄バファローズが消滅した時期、自分自身の最悪な時代の真っ只中でした。数年前から既に兆候はありましたが、公私ともに決定的なことが起き始めたのはこのあたりからです。

贔屓球団を恨むとかの気持ちは皆無なんですが、今まで「癒し」として存在し自分を

慰めてくれたはずの近鉄が完全に無くなることは本当にきつかったですし、長年の楽しみが取り上げられると、どうして良いのか本当にわからなくなりますね。一時期気持ちは離れたと言っても、どこかで繋がっていたかったのに・・・そんな感覚です。

ただ、昔の好きの度合いが激しすぎて困るぐらいの時代を想えば、一途な気持ちが残っていない現在の自分のこころの在り方が問題なのか、俺が甲斐性無しだから駄目なのか・・・とため息が出ました。

 

当時の自分の生活ですが、人並みの暮らしなど絶対に有りえないぐらいのレベルでしたので、とにかく何か稼がなければ、と日々焦れば焦るほどドツボにはまり・・・最後に仕事を与えられた場所は「大阪の街」でした。

東北の片田舎に住んではるか遠い地にある球団に想いをはせていた時代の名残とかを

含め、自分の人生に折り合いをつける時期が来ているのか、と思わざるを得ない状況

でした。

本当に皮肉だなぁって思ったのは、「近鉄が消滅した大阪に向かう(住む)自分」という図式です。もっと早く機会があればどうだったのか?他に選択肢は無いのか?タラ話が延々に続きそうなぐらいのテーマになりますね。

 

結局、仕事場を転々としながら足掛け10年関西圏に住んで、数年前に都内に戻り暮らしています。

近鉄バファローズ」が消滅してから随分と時間が経ちました・・・。

現在は、スポーツニュースを見ることも無くYahooで試合の結果を確認する程度

です。選手の名前や成績、ペナントレースの状況などほんの少ししかわかりません。

それでも、なんとなくプロ野球に愛着が残っていることは感じていますね。

何となく悲しげな、頑張っているけど報われない、思わず手を差し伸べてどうにか

したくなるような、そんなチームを応援していた自分がいたことを時々思い出して

は勝手に感傷にひたっています。

 

それではまた

 

 

土井正三について

土井正三」について

 

今どきの会話で「巨人ファン」という言葉を使うことはほとんどないだろう・・・

と思っていたんですが、たまたま「昭和の時代にはジャイアンツが物凄い人気で、

全国どこに行っても野球の話をしたら誰でも仲良くなれたんだよ。」とかいう話を

電車内でしているおじいちゃんグループに会いました。

「長嶋がなぁ」とか「王はね」「あの後楽園球場で」とか言いながら、巨人好き+

贔屓だった選手の過去と現在の姿まで延々と各自の必殺ネタが続いていて、思わず

聞き耳をたててしまいました。

ああっ、今でもいるんだなこういう人達・・・。どうしても昔の野球のシーンなので

巨人ファンが中心で他はマイノリティーみたいな感じになりますが、それでも王道

を貫くのは勇気が必要ですから、この地下鉄内の光景はとても珍しい、貴重なもの

だったのだと思います。

 

さて、私はある時期野球が好きで好きでテレビや雑誌で様々なネタを仕入れること

に無上の喜びを感じていました。

例えばのお話ですが「日本ハムの✖✖選手は中学まで地方の田舎に住んでいたが

高校野球の名門高に入るため上京、高校の近くに下宿していたがそこの小学生

だった娘さんと縁があり結婚した。奥さんの名前は〇〇子さん、ついでに奥さん

のクラスにはその後体操でオリンピックに出場した▢▢君がいた・・・。」

こんな、どうでも良いような話を発見した瞬間の喜びをどう表現したらよいか、

田舎の母に電話するわけにもいかず、結局ひとりで祝杯をあげて終わりでした。

 

それでは、上記の文章から導かれる「土井正三」のお話です。かなり曖昧な記憶なの

ですが、小学生時代に巨人と広島だか中日の試合でそのシーンを見ていたような気が

します。

モノクロで低学年か高学年前に見た感覚なので、どこの球場なのかどっちがホーム

なのかわからないレベルでのお話です。ツーアウト1塁でランナーが盗塁しました。

タイミングは微妙でしたがセカンドでアウト、タッチしたのは「土井正三」です。

ただ、この判定にランナーが激怒しました。ジャッジに対する怒りかと思っていたら

そうではなくなにか長い時間揉めています。ここで、コマーシャルが入りました。

土井正三」はにこやかにベンチに戻りましたが、この瞬間に何か犯罪のような

香りが漂いました・・・。

中継が始まったところで、解説者が一言「空タッチですね」。しかし、憮然として

いたランナー(誰か覚えていません)は既に引き上げ、通常通り試合は再開されて

います。

なにせ、小学生のため意味が解らないまま試合の中継は終わりました。

 

結局、謎が解けたのは数年後で自分が高校生になったからでした。月刊少年ジャンプ

で長期連載されていた「どぐされ球団」の中で「土井正三」の「空タッチ」が再演

されていて初めて疑問が解けたました、というお話です。

テレビ中継のある中でもあんなトリックを使うという哲学からして、「土井正三」は

タダ者ではないというか、ただの悪人です。筋金入りの確信犯というのはこのタイプですね。

 

因みに、私は幼いころGファンでした。あの筋金入りの強さはとんでもなくアクの強いオトコタチが集まったから成し遂げらたモノ、だと確信しております。

昭和40年代、阪急ブレーブスとの日本シリーズは本当に手に汗握る試合ばかり

でした。ほんの少しの差、永遠に縮まらない差で西本幸雄川上哲治に幾度か敗れ、

胴上げされることなくこの世を去りました。福本と大熊、加藤と長池とスペンサー、

山田と足立を率いても届かなかったのは何故なのか?

 

単純に「土井正三」みたいなやつがGに揃っていたからですね。これは始末が悪い

というか、あまりにもプレーが嫌らしくて話をするのが嫌になるぐらいです。

肝心な時に腹の底にたまっていた何か得体のしれないエネルギーを表に出し尽くす、

という表現で良いでしょうかね?同じような意味合いで、高田繁柴田勲黒江透修

も同等です。

いやらしさ世界一が数人続いたら、誰でも嫌気がさすものと思います。相手チームのエースはここで疲れてONに長打を喰らい降板の憂き目に会うのが定番でした。

 

参考までに、私のお気に入りの1.2番は、「高田繁」「土井正三」でした。残念な

ことに、このコンビはたしか1年で消滅しましたが、今でも史上最悪の嫌らしい、恥

知らずな男二人だった思います。

 

それではまた

 

 

小坂 誠について

人生50年以上生きて来て、未だ数えるほどしか球場に行ったことはないのですが、

記憶のなかで鮮明に残っているシーンがあります。

1997年、当時千葉県の市川市に住んでおりました。すぐ近くに読売新聞の販売店

があり、子供の付き合いで購読しないといけないような関係が生まれてしまったため、試しに「野球のチケットが貰えるなら・・・。」と伝えたところ、東京ドームは回せ

ないけど6月あたりの千葉ロッテならイケる、とのこと。

まぁ、パリーグもプロなんだから良いかな?ぐらいの気持ちで家族でお弁当持参

で観戦に行きました。

 

相手はどこのチームだったのか、まだ東京ドームが本拠地だった日ハムあたりか、

残念なぐらい記憶にないんです。そんなことより、生の試合を見てあんなに感動

したことはありませんでした。

千葉ロッテマリーンズの三遊間のあたりで動いている小さな選手が、とにかく

日本人の野手ではありえないぐらいのレベルで、速く柔らかくリズミカルにグランド

で飛び跳ねていました。

 

事前の情報も持たずに来たのは大失敗でしたね。当時、贔屓チームの近鉄からあの

NOMOを含めて何人かの関係者が消えたショックで、あまりスポーツニュースも

見なくなっていたので、完全に顔と名前が一致しない状態です。

オザカ?KOSAKA・・・?小さくて細身ですが、文字通り身体が本当に質の良い

スプリングで出来ているようで、どんな体勢でも支点がぶれず捕球もしくは止めて

当たり前のようにスローイングに入ります。

なんでそんなふうに歩きながら走りながら投げることが可能なのか、何故身体が

開かずに重心が残って力を残せるのか良くわかりませんが、そのリズムというのか

打球に対する感度の良さが桁違いでした。

 

良くMLB至上主義の人達が、日本の野手はアメリカでは通用しない、何故ならば・・・的なお話をされるを良く聞いていましたが、ここに彼らをはるかに凌駕

する純日本人ショートストップがいるんだ!と見せつけてやりたくなるほどの

逸材でした。その、ルーキー時代の「小坂誠」のプレーを見ることが出来たこと

は本当に幸せなことで、更に数年は全盛期というか唯我独尊ぐらいの時代が続き

ますが、残念なことに生で見たのはそれっきりです・・・。

 

往年の名選手、現役の選手でも守備の名手はたくさんいると思います。確かに、

良いプレーをすることでアピールも可能ですし、ゴールデングラブ賞なんていう

シロモノを手にしたらプロ中のプロみたいなものだ思いますが、ただ単純に

抜群に上手くて面白かったのは「小坂誠」です。

 

昭和の時代なら「水上善雄」は身体的に恵まれて、川崎球場にはもったいないぐらい

とてもセンスの良いショートストップでした。

平成になって見たなかで驚いたのは西武ライオンズの「永江恭平」でしたが、気が

付いたらあんパンの食べ過ぎ?かなんかでおデブさんになっていました。

正直、個人的な思い入れもあったので永江選手についてはすごく残念でしたね。

 

ごく最近では、源田選手が特に注目を集めています・・・マシンのように正確なプレー

は実に素晴らしいと思いますが、個人的にそのプレーを記憶に残して人に語りたい

と思うものではありませんでした。

但し、ここは完全に好き嫌いとか優先順位のようなお話になりますので、比較する

お話は終了させて頂きます。

 

全国に「小坂誠」を記憶しているプロ野球ファンはたくさんいると思います。どうか、語りつぐ対象として、酒の席でも昼休みのひと時でも構いません。「小坂誠」のプレーを、あなたが記憶にとどめている瞬間を他の人に伝えてください。

知り合いでもない人といつの間にか語り合っている・・・というのも悪くはないと

思います。

 

それではまた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堀内恒夫について

はじめまして

昭和から平成にかけて、野球に関する番組や本、雑誌をこよなく愛して過ごして

来ました。今考えたら、自分にとって純粋に幸せな時間だったと思います。

そんな時代の想いで話を少しずつお伝え出来れば、と考えています。

 

第1回?(果たして何回続くのかわかりませんが)、最初は自分が小学生の頃、

そのプレーをテレビ見て驚き感動し、その後の選手の力量を測る際、比較の対象

とした読売ジャイアンツの「堀内恒夫」です。

選手時代の栄光を紹介するだけなら、たくさんの偉業を延々と並べていけば済む

だけの話なのですが、伝えたいのはそのようなことではありませんので、その点は

ご了承下さい。

 

過去、数十年に渡って様々な選手を見て来ましたが、プロ野球の選手としての資質、

才能という意味で「堀内恒夫」は本当に飛び抜けた存在だと思います。

高校生、大学生時代に数多くの伝説を残した選手はたくさんおりますが、その後

プロの世界で長く生きていくための伸びしろを持っているのは本当に少ないですし、

尚且つ勝てるチームで長く君臨するとなると、ますます希少価値が・・・そんな

お話です。

 

プロ野球選手のプレーを表現する際「走攻守」という言葉がありますが、今回は

ピッチャーというポジションですので「投攻守」で良いでしょうかね。

小学生時代「堀内恒夫」の守備をテレビで見て、自分の肉体を理想的な形で使い

最高の形で魅せる、というシーンが何度もありました。

野球をするために生まれて来て、プロの世界で当たり前にその才能と技を披露する

なんて普通は有りえないはずですが、世の中には何年かに一度現れるようです。

ただし、「堀内恒夫」の投手としての守備のプレーは信じがたいほどスムーズであり、

その速さが伝わらないほどのレベルで、逆にごく当たり前のプレーを見ているような

感覚で終わることがほとんどでした。

 

野球を経験された方なら、ボールをグローブで取り行く感覚と言えばお解り頂ける

かも知れませんが、来たボールを収めることが第一で、そこからボールを取り出し

た後に、投げるべき場所にこのぐらいのスピードとか高さで投げることを順を追って

何秒かの間に行っていると思います。

堀内恒夫」は、たぶん常人の100倍ぐらいの処理能力でコンマ何秒まで短縮

可能でした。肝心なところでミスをしないどころか、味方側の野手が間に合わない

ぐらいの高速でプレーを行い、「俺にしか理解出来ず、俺にしか出来ない」意味合い

で満足していたように思います。恐ろしく傲慢ですが、誰にもマネが出来ないレベルの

「何か」を持っている場合、プロの世界では全て正しいこと、としてして認識される

ものだと思います。

 

ピッチャーとしての才能や能力、肉体的・技術的意味合いで上回る選手は、間違い

なく他にも存在したと思います。ただ、勝ち続けるチームのエースとして君臨出来る

のは本当に何人いるのか、大事な戦での勝ち運を持ち、相手のエースと毎回のように

投げ合ってもつぶれない、まして「投攻守」全てに秀でるというか、プレーの桁が

違っているなど・・・。

そういう意味合いで「天才」が存在するなら「堀内恒夫」だと思っています。

たぶんというか、間違いなく自分の中での存在感は変わることはありません。

 

野手としても成功しただろう、という話は良く聞きましたが、ポジション的にも

ピッチャーがベストだと思いますし、あれだけ際立つプレーを見るなら画面の

中央で映ってくれたほうがありがたいですし、特に昭和の時代は、テレビカメラが

バックネット裏固定というパターンが普通で、マウンド上のピッチャーが特別に

高い位置から投げていることが良くわかりました。

常に「舞台」で映える男として、とても人気があった選手でしたね。

 

年令的に団塊の世代に属する選手なので、自分よりももっと詳しく生で見た方も

多数いらっしゃると思います。

自分は本当に辺鄙な田舎で生まれ育ったため、当時の後楽園球場やその他の球場

などで観戦する機会など夢のまた夢であり、テレビか雑誌でしか情報は得られない

もの、と思うしかありませんでした。

それでも、「旬の堀内恒夫」をギリギリ理解出来る年令であったことは幸いだった

と思います。仮にもう少し、2.3年前の入団当時からその存在を理解出来る年令

だったら、この文章は思い入れが深くなりすぎて物量として3倍ぐらいになって

いたかも知れません。

 

それではまた